2014年5月22日木曜日

平たい顔族の、『陰翳礼賛』の行方

以前にも書いていますが、
印刷物、あるいはサイト上で大きく使う写真は、いわば整形美人。背景などをセッティングし、ライティングして、さらには合成や修正までする。うちでも通常の撮影の仕事では、素材となる写真を部分ごとに何枚も撮って、合成するのが当たり前になってきました。 
SNSで認められる写真力って、どんなの? 

この合成をするとき、もっとも気をつかっているもののひとつに影があります。ところが最近、ある大手企業のポスターを見て愕然としました。Photshopのドロップシャドー機能をそのまま使ったような影でした。
陰って、実際はものすごく複雑です。スタジオでライティングされたものでも、屋外で自然光でも、さまざまな光の反射が重なってゆらぎを持っています。
だからそれを合成で再現するには、かなり細かな作業が必要だと思っているのですが、オーバースペックなのでしょうか。

もしかすると、光と影の感覚が変化してきているのかもしれません。


写真:鎌倉鶴岡八幡宮の松明



谷崎潤一郎の『陰翳礼賛』は、日本の建築様式から


昭和8年に書かれた谷崎潤一郎のエッセーは、こんな風に始まります。
今日、普請道楽の人が純日本風の家屋を建てて住まおうとすると、電気や瓦斯(ガス)や水道等の取附け片に苦心を払い、何とかしてそれらの施設が日本座敷と調和するように工夫を凝らす風があるのは、じぶんで家を建てた経験のない者でも、待合料理屋旅館等の座敷へ這入ってみれば常に気が付くことであろう。
昭和8年の純日本風家屋とは、どんなものでしょう。とにかく和風と文明の利器との調和に悩んでいた、腐心されていた時代なんでしょう。
実用一辺倒の西洋紙と温かみを感じさせる唐紙や和紙、電燈や燭台、食器などについて語ったあと、「建築のこと」という見出しになります。

われわれの国の伽藍では建物の上にまず大きな甍を伏せて、その庇(ひさし)が作り出す深い廣い蔭の中へ全体の構造を取り込んでしまう。寺院のみならず、宮殿でも、庶民の住宅でも、外から見て最も眼立つものは、或る場合には瓦葺き、或る場合には茅葺きの大きな屋根と、その庇の下にたゞよう濃い闇である。時とすると、白昼といえども軒から下には洞穴のような闇が繞っていて戸口も扉も壁も柱も殆ど見えないことすらある。

日本人とて暗い部屋よりは明るい部屋を便利としたに違いないが、是非なくあゝなったのでもあろう。が、美と云うものは常に生活の実際から発達するもので、暗い部屋に住むことを餘儀なくされたわれわれの先祖は、いつしか陰翳のうちに美を発見し、やがては美の目的に添うように陰翳を利用するに至った。事実、日本座敷の美は全く陰翳の濃淡に依って生れているので、それ以外に何もない。西洋人が日本座敷を見てその簡素なのに驚き、たゞ灰色の壁があるばかりで何の装飾もないと云う風に感じるのは、彼等としてはいかさま尤もであるけれども、それは陰翳の謎を解しないからである。 

つまりは、日本の建築様式が「陰翳のうちに美を発見し、やがては美の目的に添うように陰翳を利用」 という見立てです。

「暗がりの中にある金色の光」という見出しでは、こんなことが書かれています。
奥の奥の部屋へ行くと、もう全く外の光りが届かなくなった暗がりの中にある金襖や金屏風が、幾間を隔てた遠い遠い庭の明りの穂先を捉えて、ぽうっと夢のように照り返しているのを見たことはないか。その照り返しは、夕暮れの地平線のように、あたりの闇へ実に弱々しい金色の明りを投げているのであるが、私は黄金と云うものがあれほど沈痛な美しさを見せる時はないと思う。 
さらには暗い能の舞台で、金銀が豊富に使ってある絢爛な衣装は、日本人特有のあかみがかった褐色の肌を引き立たせる。また当時の女性の化粧について、蝋燭や蘭燈のゆらめきでなければ魅力を解し得ないと書かれています。
文庫本の解説で吉行淳之介も、花柳界の女性について、こう書いています。
私が最も厭な気分になるのは、真白に塗った顔から覗く歯が黄色くみえることである。(中略)「陰翳礼賛」を途中まで読んだときに、気がついた。芸者のあの化粧は、わが国の照明がまだ燭台とか行燈によって部屋が仄暗かったときのものにちがいない、ということだ。


国内外で高い評価を得ている文豪の随筆も、また文豪の解説も、書かれている内容は、それほどのものかと思います(笑) 美術的には、常識を語っているようです。たとえば日本の色は、黒のバリエーションが豊富ですし。
ただ当時の風俗とその感覚を知るには、とても役立ちます。
今なら吉行淳之介さんは、テレビに出るような人たちについて、女優ライトで肌の質感を飛ばしてしまい、平面的に見えることとか。ボトックスや整形で表情がなくなっていることを嘆くでしょうか。

ゆらぎのある柔らかな光、隅々まで行き届かない光がもたらせていた陰影の美が、明るい照明でおかしくなってきた。それをなんとかしてきたのが、ライティングなどの撮影や映像技術。
ところが現代は、ハイビジョンや液晶モニターによってなのか、これまで同様の技術では陰影が無段階のようなやわらかなグラデーションではなく、のっぺりゴツゴツした階調になっているように思えます。



世界的照明デザイナーがフランスで教えられ、再考した『新・陰翳礼賛』


照明デザイナー・石井幹子さんが、2008年に書かれた『新・陰翳礼賛』という本もあります。

石井さんといえば、東京タワ-、東京駅レンガ駅舎、レインボ-ブリッジ、白川郷、姫路城などなど日本を代表するライトアップの多くを手がけられていて、その“作品”を目にしたことがない人は少ないでしょう。日本にライトアップという概念を持ち込んだのは、石井さんかもしれません。
横浜や京都の照明プロジェクトは、彼女からの持ち込み。いまでこそ京都の寺社仏閣は美しくライトアップされていますが、計画書を持って行っても京都市役所は取り合ってもくれない。そこで自ら照明機材を積み込んだキャラバンを編成し、直接お寺などに掛け合い、実際にライトアップを見せることで夜間照明の魅力を実感してもらったそうです。

スクリーンショット:MOTOKO ISHII LIGHTING DESIGN の東京タワー画像

石井さんの半生は、そんな「あかり」の美しさの追求。ところが石井さんに谷崎潤一郎の『陰翳礼賛』を薦めたのは、フランス人照明デザイナー。『陰翳礼賛』は翻訳され、「フランスの知識人で日本文化に関心のある人は、ほとんどと言って良いくらい『陰翳礼賛』を読んでいる」と書いています。
石井さん自身、50代で和の明かりの豊かさに気づきます。

光と闇という対比の中で捉える欧米の照明とは違った、光から闇に至る中間領域の中にある、柔らかな「あかり」の存在であった。この「あかり」は、日本の文化の中で育ってきた独自のものであると、私は考えている。


でも(当時の)日本では、こんな状況。
圧倒的に多いのは、蛍光灯の大きな器具が天井の中心を占めているものである。下から建物を見上げると、白い光がたくさん見える。
高度成長期の明るければ、それが文明だという価値観だったのかもしれません。北欧ではペンダントで「上方に柔らかい拡散光が天井に大きく広がり、下方に程良い直射光がテーブルの中心からほぼ全体に広がっていた」と書かれていますから、日本の照明の使い方は直接光主体で、単純だったのでしょう。

石井さんの特徴は、ライトアップばかりではなく、早くから代替エネルギーを積極的に取り入れてきたこと。レンボーブリッジの主塔には太陽光パネルが取りつけられ、イルミネーションの4割は太陽光発電でまかなわれているそうです。
東日本大震災より8年も前ですから、かなり先駆的です。「ただ明るければいい」という発想とは、かなり異なります。


東日本大震災のあと、電力不足で、都心部でも照明が抑えられていました。輪番停電は真っ暗ですので困りましたが、私にとって照明の抑制された都心の風景は、「暗いなぁ」という感じはありませんでした。利便性も、同様でした。
今では、すっかり元に戻っています。




日本人は闇遊びの達人だったという、『「闇学」入門 』


そして今年、「日本の文化は闇と切り離せない」という本が出ました。

たとえば富士山信仰。庶民の富士登山は室町時代に始まり、ご来光を見るために夜に登っていた。闇が広がる山を登り、その最後にご来光を見ると、世界が一気に変わって、新しい世界の始まりを強烈に感じられるといいます。目に見えるように、想像できますね。
こういう習慣は、世界にはないそうです。

確か女人禁制で、始めて富士山に登った江戸時代の女性は、ちょんまげを結い、男装していたとか。それも、夜間に登ったから可能だったのかもしれないですね。


この本では「明るいところと暗いところでは、全然違う視細胞を使ってものを見ている」と書かれています。

暗いところでは桿体という超高感度でわずかな光もとらえるが色を識別できない視細胞が働いて、モノクロでものを見る。これを暗所視という。
実際、夜目というのは全体視力そのものだ。明所視の際に働く錐体は、網膜の中心部分に集まっていて、一方、暗所視の際に働く桿体は、網膜の周辺部分に広がっている。だから、暗順応した状態では、本来ピントを合わせるべき真ん中のものが見えにくく、周辺のものの方が見えやすい。

これって日本の色は黒のバリエーションが豊富だったり、全体を見るような日本画の回遊性と通じる話かもしれません。

そして「ただ暗いだけで五感が敏感になる」と書かれているのですが、夜道などを考えるとうなづけます。心理的な要素だけではないということでしょうか。
そう考えると、味をおいしく感じるとか、視覚以外の感覚とも連動しているのかも。色の感覚が、他の感覚と連動する、置き換えられて増幅されるなんていうこともあるかもしれません。「暗い」は遠いとか深いとかいう視覚的な要素だけではなく、寒い・重い・濃いなどの他の五感ともつながっていそうです。

つまり、色をただ色として視覚が認知しているのではないのでしょう。



またこの本では「日本の闇は優しい」と書かれています。どういうことでしょうか。

多くの宗教が砂漠で生まれた。砂漠の闇夜は星明かりも力強く、すべての星が自分に向かってくる感じがする。善悪がハッキリしている。
それに対して、日本は闇に溶け込むことができる。
そもそも狭い国土で平地が少なく、その平地でさえ岩や砂漠ではなく、樹々が生茂っていたり、家屋が密集していたりしますから、さまざまなものに反射した光がやわらかな光を作る。やわらかな闇を作っているということなんだと思います。

一神教VS多神教の視点で、日本の多様性やあいまいさを解説する論が花盛りですが、光と闇で考えるのは画期的です。





モニター漬けの生活で、視覚がどう変わるのか


パソコン、スマホ、テレビ、デジタルサイネージ。今や電車の中でも職場でも、家や遊びの場でもモニターに接している時間が圧倒的です。画素数はどんどん増えていますが、使われ方はどうでしょうか。

インターネットの世界では、1994年ネットスケープ社からほとんどのパソコンモニターでほぼ同様に再現されるようにと「Webセーフカラー」216色が提案されました。
またここ3年ほどは「フラットデザイン」と呼ばれる、シャドウやグラデーションを使わないペタンとした色の使い方が流行しています。これはデータの受信と端末で表示される時間を短くできるというメリットも大きいです。
そして多くの人がパソコンからスマホへとシフトしている今、小さい画面で「フラットデザイン」以外を用いるのはなかなか難しいと思います。



写真では、どうでしょうか。『陰翳礼賛』の解説のところで書いている女優ライトではありませんが、階調を飛ばさないと小さなモニターでは美しく見えにくいかと思います。平面的で、あまり人間ぽくはないですけどね。


そんなことを考えていると、若い女性を中心に流行しているまつげと眼球の間にアイラインを引く「インサイドライン」だって、デカ目に見えるといっても外から見えにくい縁取り効果と、奥行き感を出す“影付け”なのでしょう。(危険な化粧法だそうですよ)


女性誌を見てみました。表紙だけですけど、やはり質感を飛ばしています。そして20代向けから40代向けまで、どれも明るいく柔らかな光を使っているのが共通しているように思えます。影はほとんどありません。

スクリーンショット:セブンネットでの女性誌サムネイル

違うのは、FUDGEが全身で自然光っぽい。Sweetがほぼ逆光。Ane Canがモノトーン。ぐらいですが、やはりふんわかしている。
海外誌の日本語版はモード系だからか、ふんわかしているものはなく、強いハードなトーンです。

これは、日本の今の気分なんでしょうか。ハイライトがなく、全体的に明るく、優しい雰囲気。
言い換えると、フラット、平板。ふんわりしたライティングだと、顔を立体的に見せるのは、やはり縁取り的メイクと髪の躍動感ぐらいということになるでしょうか。
まさかスマホ画面に合わせたわけではないでしょうが、小さな画面での表示に最適です。




明るさの流行は、ブルーライトにも原因がありそう


坪田一男という眼科医で日本抗加齢医学会理事をされている慶応大学の教授によれば、目にはカメラと時計という2つの機能があるそうです。
1879年にエジソンが電球を発明して「世界から夜が消えた」と言われたが、実は消えていなかった。電球にはブルーライトはほとんど入っていないため、電球の灯りをつけていても、時計としての目は“夜”と認識していたからだ。
ところが紫外線に近いブルーライトを多く含むLED照明やパソコン、スマートフォンなどが溢れる現代、24時間周期で体内リズム(=サーカディアンリズム)を刻む体内時計に大きな影響を与えるのがまさにブルーライトなんだそう。

ブルーライトを浴びていると、体内時計は昼間だと認識。ブルーライトをカットするメガネも出ているぐらいだから、目に悪いのかと思っていたら、目だけではなく人間の体内リズムを狂わせるとのことというからビックリしました。(網膜にもダメージを与えているそうです)

夜明るい環境で過ごしたマウスは8週間後に糖尿病一歩手間になったり、タイムシフトワーカーは乳癌のリスクが高くなるという研究結果も出ているそうです。

体内時計が昼だと認識し続けているのはどういう状況でしょうか。
サーカディアンリズムは内分泌・代謝系や自律神経にも、影響を及ぼすそうです。たとえば朝の比較的高血圧状態が続くとか、交感神経優位の時間が長いということも考えられそうです。

『新・陰翳礼賛』の中で、石井幹子さんはこう書かれています。
人間は、朝は高い照度を、そして昼を境にだんだんと照度を下げていくことを好む

もしかすると今の日本は、寝ないで「昼」がずっと続いているような躁的な状態なのかもしれません。暗くなるのを求めていないのかも。
四季が徐々に移り変わるから、豊かな自然を姿を楽しめるように、明るさだって徐々に変化するからいい。人間だって動物である以上、光によって行動を規定されているのが当たり前ですよね。


ましてや平たい顔族のDNAは、ライフスタイルが変わったところで、そう簡単に変化しないと思うのですが。
だって手足が長くなっても、顔は平たいままですし(笑)







顔は平たくても、いいものいろいろ生み出してるのが平たい顔族ですよね。



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