2012年10月12日金曜日

奥村靫正さんをインタビューしてきた

今月の頭、YMO関連のアートワークや中沢新一本の装幀などで有名な、アートディレクターの奥村靫正さんをインタビューしてきました。

奥村靫正さんの作品サムネ


どうしてそんな仕事が回ってきたかというと、あまりに大御所過ぎて、ふたりのインタビュアーから断られたという。私は、奥村さんと一時期、濃く仕事をさせていただいたので、ぜんぜん平気。もっとも20年以上も、昔のことなんですが(笑)
                                       
クライアント側としての立場で、若かったし、かなり無謀なお願いをしたと思います。
ちなみに株式会社イグジィットのロゴは、立花ハジメさんの作。こちらはそんなお願いをしていないのに、ADC最高賞を受賞されたタイポグラフィのシリーズでお作りいただきました。
奥村さんは、その立花ハジメさんの、グラフィックの師匠でもあるんです。


EXITロゴ



奥村さんとの出会いは、ウィリアム・ギブスン『ニューロマンサー』のカバーデザインや細野晴臣『SFX』のジャケットワークを見て、もうどうしてもこのコラージュの手法でやって欲しいと仕事を持ち込みました。コラージュでティーザーになるビジュアルを作って欲しいということだったんです。
『アルバイトニュース』が『an』にリニューアルする時の、ポスター制作でした。今考えると、よくまあ、そんな俗っぽい仕事を持ち込めたもんだと(笑)


奥村さんには、いろんなことを教えていただきました。雑談しているだけで、驚きの連続です。今回のインタビュー内容と被らないように、少し書いてみます。

当時は、MacやコンピュータでDTPという言葉が、出始めたころだったでしょうか。ただそれは、アメリカでエディトリアルのデザインワークがコンピュータで行なわれるようになったというもので、グラフィックデザインの世界では、しょせんデジタルでしょ。グリッドに合わせるだけだし、書体もちゃちいし、ぜんぜんダメ。ぐらいの扱いでした。
そんな時に、奥村さんのTHE STUDIO TOKYO. JAPANではMacからフィルム出力をしたりして、B倍ポスターを作っていました。当時、アメリカのAdobe本社のロビーには、奥村さんのポスターが何枚も貼られていたそうです。Adobeにとっても、イラストレータでこんな大きなポスターを作るなんて、事件だったのかもしれません。


奥村さんは、そもそも4歳で絵筆を握り始めたという絵師。日本画の中でも大和絵といわれる系譜だそうだ。今では大和絵の手法で描ける人は少なく、昭和天皇崩御の時の大嘗祭に起用されたほど。
当時奥村さんがおっしゃっていたのは、コンピュータでグラフィックをやるのと、日本画を描くのは、よく似ている。昔の日本画家は、家が火事になると失業すると言われていた。モチーフや文様などを写本にしたデータベースが焼けてしまうと、なにもできなくなる。それぞれデータベースから引っ張り出してきたものを、ひとつの絵として成立させられることを画力という。
コンピュータは、データベース。デジタルな線として使うばかりじゃなく、手書きの味が欲しければ、それをトレースするように描けばいいし。というようなことを、おっしゃっていたと思います。

写真:奥村靫正さん


そんなことを言うクリエイティブ関連の人は、最近でもあまりいない。もちろん、そのころは、聞いたことがなかった。近いのは、音楽の世界。サンプリングとリミックスみたいなことは一部で流行りだしていて、立花ハジメさんなんかは日本での先駆けだったと言っていいでしょう。


奥村さんは、絵を描く時でも、ここの文様はクリムトを持ってくるとか、和洋折衷に思えることをおっしゃるけど、たぶんコラージュ。デジタルもアナログも、和も洋も関係ないというか、縦横無尽。異なるジャンルのものを組み合わせて、破綻せずにひとつのビジュアルに定着させるんですから。


今回お聞きした話がどうだったか、書きたいところだけど、それはさすがにマズい。奥村さんのことはそれなりに知ってるつもりだけど、知らない話がいっぱい出てきたし、久々に色んな刺激を受けました。
どこの仕事かというと、一世を風靡した雑誌『Design Plex』。グラフィックやウェブというジャンルにとらわれず、デジタル系という切り口でクリエーターの必携マガジンだったけど、やがて休刊。それが、Design Plex Webとして帰ってきた。本格化されるのは、いつなのかわからないけど、今回の記事が出たら、ここにリンクを貼ります。
私はインタビューしただけで、書き手は違う人なので楽しみです。



バナー:ウェブ、グラフィック、そしてソーシャルなつながりをデザインする制作会社です


コメントを投稿